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8.米軍機不時着(1960年)

  • 北岡組今昔物語

歴史に残る滑走路工事

米軍機不時着昭和35年11月17日午後4時40分頃、北岡組南側の吉野川河川敷へ米海軍の輸送機が悪天候と無線機の故障のため胴体着陸をしました。
乗員7人は全員無事でした。
その後、機材を取り寄せ修理、緊急滑走路を造り、12月14日再び大空へ飛び立ちました。
我が北岡組は、社長北岡春夫指揮のもと、滑走路工事を引き受け、大きな機動力となりました。

滑走路工事への経緯

悪天候の中、石ころだらけの吉野川河川敷への胴体着陸にもかかわらず奇跡的にも乗員全員が無事であり、機体自体も大きな損傷を受けておりませんでした。
(近くにあった吉野川水路の安全神様「船玉の神」が誘導したのではと言われました)
これにより、機体を分解せず修理し何とか飛ばそうとの事になり、資機材の少ない当時としては大変な工事が決定したのです。

米海軍・町民・北岡組の一体になった取り組み

この決定を知った町の人々から「困っているのだから何とかせないかん」との声が広がると共に、善意の人たちがたくさん協力を申し出ました(当時は、外国人の方と面識のある方は少なかったと思われますが)。
当然、すぐ横にあった北岡組の社長も会社を挙げて取り組みました。米海軍からも、2名の技士が工事指揮者として当地に来られました。こうして言葉も充分理解できない状態の中で、片言と身振り手振りを交えながら全員が一体となりスタートしたのです。
仕事のやりくりをつけて駆けつける町の方々と北岡組社員、連日100名程の人たちが日々献身的に作業を続け、23日目に完成することができました。
この工事によりお互いの強い信頼、友情が築かれ、その後長い間交流が続けられることになりました。

< 工事内容 >

滑走路は、延長約490m、巾約40mのものであり、作業手順は以下のようなものでした。

  1.   人力にて大きな石の撤去
  2.   ブルトーザによる下地処理
  3.   グレーダーによる砕石敷均し
  4.   マカダムローラーによる転圧
  5.   むしろ敷き(離陸による土砕飛砕防止)
  6.   敷鉄板(米軍横田基地より搬入)

当時苦労したのは、機材がなく準備するために走り廻った事と、一日でも早く完成することだったそうです。また、ビックリしたことは、横田基地から搬入された敷鉄板は、予定期日に国鉄特別貨物便により、貞光駅に搬入されたことで、工程管理の厳格な事です。ともあれ、無我夢中の工事だったとの事です。

離陸と日米親善交流

米国軍機不時着2 米海軍、町の方々、北岡組の諸先輩方、そして多くの関係方々が汗水を流し、心を込めて仕上げた滑走路を不時着から約1ヶ月後の12月14日に輸送機は離陸することになりました。当日は、役場も学校も臨休です。吉野川の両岸は手に旗を持った小学生ら大勢の見物人で埋まりました。パイロットの方たちが操縦席に乗り込んで間もなく、巨大な輸送機は轟々と爆音を届かせながら滑走路を走行し無事離陸しました。誰彼ともなく「バンザイ」の完成がわき上がり、吉野川にこだましたそうです。
飛び立つ前に美馬町に贈呈された石碑には、「この工事に示された寛容と厚誼に感謝のため合衆国海兵隊より美馬町に献ず」と刻まれていました。
この後数年間、不時着の日には岩国基地より代表の方がヘリコプターで訪れ、賑やかに親善の集いが行われました。また、町の人たちを岩国海兵隊基地に招待して下さったり、奨学資金等の支援をして下さったりしました。交流は岩国基地に関係者が居る間続けられました。

この出来事から約40年の月日が流れました。今では滑走路が造られた河原も堤防となり(昭和46年3月)、当時をしのぶ事はできません。でも、堤防の下には記念碑と船玉神社があります。春になれば岩国より届いた記念樹の桜が咲きます。

皆さんもこの場所を通りますときには、どうぞ想像をしてみて下さい。(人々の観衆のこえを・・・)

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