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7.舗装工事着手と野村プラントについて(1959年)

  • 北岡組今昔物語

昭和三十年代に入り、国県共に舗装工事を脇土管内に於いても推進する事となり、国道、主要道路のコンクリート舗装が始まった。(正確な年度は記憶に定かではないが昭和三十四年頃と思う)勿論当社としては、国道、県道のコンクリート舗装に脇土管内で最初に名乗りをあげ、指名願いに着手、道具等も取り揃え勉強もし、着手、施工も三ヶ所行った。その二年後主要県道はアスファルトに依る防塵舗装工法を県は発表、当社としては当然早速名乗りをあげ又指名願い、勉強道具、器具の取り揃えを行い着手した。当初は、今は亡き中川勝太氏を現場施工班として着手した。徳島市内では日本鋪道(株)がすでに施工していたので見学にいったものである。当初のアスファルト防塵舗装は道路を人力で切りならし、砂利を敷き赤土(山土)で覆い、ローラ転圧(小型マカダム)し、ドラム缶入りのアスファルトを現場で加熱しスプレーで吹き付けて砂を散布する方法で此を二層にしたものである。今から思えば非常に幼稚な施工方法であったが、当時としては、県の仕様書に提示された施工で斬新な方法であった。脇土関係の業者としては、(株)北岡組、貞光土建、井上組、上田組が工事施工を行ったが、大半は北岡組の受注で力を入れたものであった。従って美馬町は勿論半田、貞光、穴吹、脇町の主要県道全て施工実績をもったものである。但し日本道路(株)と吉崎建設が脇土関係で一宇、木屋平、脇町、清水等を施工したものである。その後昭和三十六年度頃から県の仕様書が変わり加熱混合に依る防塵舗装を発表、プラント建設の必要性に迫られ、現在の野村プラント敷地に設備したのである。当初は、アスファルトプラント設置、マカダムローラ(十頓級)グレーダーを義務付けられ、此だけで舗装工事に着手出来たが資本的に大変であった事を記憶している。

その後加熱式混合防塵舗装と県の舗装工事に対する仕様書が変わり、タイヤローラ、フィニッシャー、必要な現在の舗装工事に進展したものである。現在の野村プラント設置に関して一番苦労したのが設置場所であった。二転三転し探し求めて昼も夜も走って急いだ事を覚えている。一日も早く造り他社に遅れを取らぬ様又県工事の受注に支障のない様にとの考えからであった。既に徳島の吉崎建設から貞光に用地を借りてアスファルトプラントを設置に着手していた。吉崎建設と当社と競争になった状態であった。現在の野村プラント敷地は県有地で然も当時脇町町議会議員で坂本文夫氏が占用地として県より六反歩借り受けていた。それを場所的にも、又人家とも離れていたので最適地と定め交渉に交渉やっと当時の金十五万円を出して権利を譲り受けたものである。昭和三十五、六年頃の十五万円は貴重な金額であった。

現在徳島県内のアスファルトプラントとしておそらく北岡組のプラントが道路及び場所として他社に遅れを取らないと思う。最初に設置したのは日工式であり、次に新潟鉄工の機械であった。

平成元年大成ロテック(株)と共同で運営することとなり、再度日工式を設置し現在に至っている。プラントの設備も時代と共に改造又改造し、機械器具も進歩し現在運転中の設備である。勿論現設備については大成ロテック(株)の指導に依る所非常に大であり、共同運営でもある。

(藤田 芳美さん 元㈱北岡組 専務)

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