今回は、初めて機械(重機) 等を導入した頃のお話を当社監査役の北岡政子さんと北岡組OBの長尾秋利さんに当時の様子を聞き、思い出話としてまとめてみました。
昭和30年代前半、当時人夫さんは10人くらいで、何をするにも手作業、生コンを練るのも鉄板の上でスコップで練っていたそんな時代でした。元社長故北岡春夫氏が自転車を購入したのが最初でした。それから単車(チェーンのないライラックと言うもの) からダイハツの三輪、発動機を購入、発動機を購入した事で生コンを練るのが少し楽になりました。
木屋平川井の災害の時に崩落した土砂や岩石の取り除きに人力では何カ月も要し、どうしても間に合わなくなり脇町土木事務所でブルドーザーを借りて作業をすることになりました。当時ブルドーザーは一日で300人分の仕事をすると言われていましたが、大手は別として徳島の建設業者でブルドーザーを所有しているところはありませんでした。脇町工事事務所管内では脇町土木事務所に一台だけでした。その作業を見ていた社長が「無理をしてもこれを買うぞ」と決め、免許を所有する者もいないまま機械だけ先に購入しました。国鉄穴吹駅に貨車に乗って到着した時は大勢で出迎えに行ったものです。当時のお金で350万円くらいでした(賃金は一日150円の時代です)。それから長尾秋利さんが土木事務所にブルドーザーの操作方法を習いに行き、その後四国機器(現在の四国建販)の紹介で昭和35年5月頃東京に講習に行きました。徳島・香川・愛媛から一人ずつ、徳島からは北岡組の長尾さんが行く事になり、高松の四国機器へ集合して夜行列車で東京へ、いきなり東京駅で降りたのでは迷うのでひとつ手前の駅で降りてタクシーで宿舎に行ったそうです。それから一カ月遊びにも行かず一生懸命(宿舎から講習会場へは毎日自転車で通い)講習を受け免許を取得しました。検定が終わってほっとして、遊びと言うか靖国神社にお参りをしました。長尾さんは知らないと思うけど、その時会社へは成績表が送られてきたそうです。当時ブルドーザーの免許証が珍しく警察にも見せて欲しいと言われたそうです。
ブルドーザーで初めて作業したのは、宗重の縫製工場(当時の役場の隣)の整地だったと思います。それからはいろんな工事に駆り出され、米軍飛行機が不時着した時の滑走路造りにも貢献しました。しかし、飛行機が飛び立つ日には、三野方面の現場作業に駆り出されていたため見る事はできませんでした。
ブルドーザーを現場作業で2年程活用した後、ショベルやP&H、グレーダーと次々に購入し、後輩(小林利昭さん等)へと引き継いでいきました。そして長尾さんは北島生コンへ生コンの製造技術を習いに行きました。
その頃には、従業員も増え、藤田専務、そして人夫さん(当時は先遣りという)は長尾春重さん、中川勝太郎さん、高田忠次さん、高西恒幸さんを初め女子社員も、浜田さん、葛籠さん、高田さん、小田さん、井川さん、近藤さんたちがいました。女子社員で最初の入社は、田村さん?(手塚の肥料屋さんの娘さん)と尾形さんと言う方でした。
昔は会社と言うより個人商店という感じで、みんながひとつとなり家庭的でした。
堤防工事の時は、昼間工事が出来ないので夜間工事です。その時は深来さん、宇山さんと一緒におにぎりやちくわの煮しめを作ったものでした。
どれもこれも今では良い思い出です。そんな遠い昔の話を昨日の事のように話されるお二人は生き生きとしていました。今回聞けなかった話もこれからどんどんお聞きして竜王で紹介させて貰おうと思います。
(北岡 政子さん 元㈱北岡組監査役 ・ 長尾 秋利さん 元㈱北岡組資材部)