昭和三十年代の木屋平村に於ける(株)北岡組の工事現場は華やかであった。現在も施工標柱、(株)北岡組が至る所に残っている。
毎年の様に継続して施工した現場は
①現徳島剣山線(現在は一般国道に昇格)、川井峠より川井の交差点三叉路迄この工事には延べ何千人の人が従事した。昭和三十二年より昭和四十二年迄十年間継続施工で組本社よりも佐藤友太郎、高田忠治、長尾春重、高西恒幸、丸岡繁太郎、菅本恒夫(木屋平村)等々北岡組の主な職長然も作業員(当時は人夫と言っていた)二十名~三十名引き連れていた者が飯場を作って施工に従事したものであった。
②林道太合線現在は県道に昇格しているが、当時は林道として昭和三十四年頃より着工した。木屋平村滝の宮より太合に向けて細い山路が昔からあったが太合谷川沿いにある山路を林道に昇格開通したものであった。この工事は三十一年頃より四十年頃迄継続施工で主として佐藤友太郎氏が職長として滝の宮の切塚商店(現在も商店を開いている)の階下を借受け飯場として施工期間中利用し、美馬町から十四~五名の作業員が宿泊又地元からも多数の人が働きに出ていた。殆どが面出し玉石コンクリート積みなる石積工法で擁壁、保壁が施工され、現在も当時の面影が残存している個所が多数見受けられる。
③太合谷川治山工事この工事は毎年継続ではなかったが荒廃していた谷川に堰堤を作り防止したものであった。五~六基施工しており、高西恒幸氏、佐藤友太郎氏等により一基宛施工したものである。
④林道樫原線木屋平村樫原より樫原地区、向樫原地区を縫う様に車道を作った。林道で、人口及び民家もかなり多くあったが、全て一米幅程度の徒歩の山道であった。樫原谷のコクが深く橋梁及び地辷り地域の指定も受けて居り難工事が続いた林道工事であった。
⑤樫原谷治山工事この地区は地辷り地区で、治山工事として水抜き隧道工事二本、砂防堤防五基等長年に亘り施工、勿論一年一件発注で約十年施工が続いた。林道工事と併せ地辷り工事は資材運搬に架線を張り苦労が多かった工事が続いたものだ。
県土木部砂防課での治山対策、県農林部治山課での治山対策等区域を分けての工事が発注され総て(株)北岡組が受注し、多い年は樫原谷だけで三ヶ所の施工が行われた年もあった。従事した職長は、佐藤友太郎、長尾忠芳、田中文明、大久保一郎、北岡茂明、原田組(下請)各氏で作業員はこの谷に生活する地元民が殆どであった。勿論美馬町からも飯場を作り又は民家を借用宿泊での施工であった。
⑥川上治山工事この地区は昭和四十年より高知営林局治山課管轄となり、治山課より移管された。従って県治山課管轄当時は(株)北岡組施工で資材等搬入も総て架線で難工事が続いたものであった。架線を中継しての現場搬入(砂、セメント、砂利、其他)で現場でコンクリート作成打設であり作業員の通勤も徒歩で苦労の多い工事ばかりであった。勿論飯場生活で殆ど美馬町の人々であった。四基の床止堰堤が毎年及び隔年工事であった。従事した職長は、佐藤友太郎、藤元福雄、中川勝太氏等である。
以上は五年~十五年の継続工事で、毎年受注したものであった。
⑦その他単年度及び二年継続等の施工工事も受注した。
(イ)三ツ木治山工事(二年間)
(ロ)日比宇橋(県道)
(ハ)堂久保橋(県道)(二年間)
川原谷に架かるアーチ橋
(ニ)樫原谷橋(県道)
(ホ)ボーリング工事(大北、竹尾、三ツ木、大北、竹尾は平成十年度も昔より継続して施工)
(ヘ)舗装工事(県道及び町村発注も(株)北岡組で大半施工した)(平成二年)
(ト)建築工事も木屋平村立谷口小学校の体育館、南張り椎蚕飼育施設等
⑧栃参社谷治山この工事は昭和四十年度より高知営林局管轄となり十三年間位継続受注、架線に次ぐ架線で資材の運搬に苦労した工事であった。勿論作業員も山道を徒歩で三十分を用し、苦労の多い現場であった。平成十年度分もその継続として工事名称は変わったが舟サゴ谷として施工が続いている。当時従事した職長及び下請けは藤元福雄、佐藤友太郎、逢坂善則、原田組(下請)、竹内秋男(下請)、大南組(下請)、昭和工業(下請)等である。
⑨明石谷治山工事営林局発注で昭和四十八年頃より継続五年間で施工、殆ど原田組(下請)で施工・架線で資材運搬であった。
⑩其の他営林局災害復旧など単年施工二~三年で五箇所(現在は一般国道四三九号として昇格している)当時は名頃林道として森林開発公団発注であった。
⑪昭和五十二年災害穴吹川滝の宮に堰堤(二年継続)高西恒幸施工 飯場生活で滝の宮でプレハブハウス二棟で生活していた。
この頃よりプレハブ組立ハウスが出来生活様式も一変する様になった。
昔は飯場生活と言っても、コンクリート打設に使用したバタ角で現場に使えなくなった柱を使用し柱及び張等にコンクリートが不着したまま使ったものであった。
又、壁材は型枠の古材板でこれもコンクリートが付着していて、冬季は風通しがよい為寒く、セメント袋を粘りつけて寒をしのいだものであった。
(藤田 芳美さん 元㈱北岡組 専務)