昭和二十四年三月二十三日か二十四日だったと思います。
仲人は当時、県議会議長の故人宮田美信さんでした。
場所は今の佐藤友太郎さんの所でした。
重清から出て来るのに家はなく、半田町の井川に建っていた物を取りこわして馬車で青石の川まで運び、吉野川を流し喜来の浜で取り、川で洗って建てた家でした。
当時、会長の父喜之烝さんが私の父に「定やん、春夫の家を探してくれ」と言って来て、私の父がみつけ、金額の交渉で五万円であり、喜之烝さんに言うと「そりゃ高い」と言う事で、他を探しても無く、二回目に行くと十万円であり、又見合わせて三回目には十五万円であり、それを買ったそうです。二軒半×五軒の二階建の入母屋でした。
その家で婚礼をし、昔は式場がなく家であり、三日間お客をした様に思います。
その都市昭和二十四年に初めて旧郡里中学校校舎の建築を請け負いました。
当時の町長は三橋熊雄さんであり、今の旧県道宗重より現場まで、車が通行出来る道は北岡組の施工でした。その当時、会長も若く実績もなく工事をもらうのは大変であったと思います。私が聞いた話は、故人穴吹の佐藤一夫(会長の奥さんの父)さんがおり、私が保証もするし材料も全部入れると言う事で請け負ったそうです。今思うと、佐藤さんがいなかったらおそらく建築はしてないと思います。
その当時佐藤さんは、あらゆる方面で信用もあり力もあり、北岡組としては口では言えないほど、大きな力になってくれた人です。
(馬場 茂さん 元㈱北岡組 建築部)