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2.中鳥島護岸工(1946年頃)

  • 北岡組今昔物語

今の会長が仕事を始めてから約一年位たってから、当時(車も機械もなく皆手仕事であった時代です)は前に述べた通り、工事金額は十万~三十万位の工事ばかりでありましたが、二百四十万の仕事をもらってきました。場所は中鳥島の護岸工事でした。

当時金額が多い(今の金額にして一億二千万円以上になる)ので工事をもらったものの、どうして工事を仕上げようかと迷っていました所、会長の父が「春夫、どんなにするのか。」と尋ねました。「さあ。」と言ったものの人がいないのでよわりました。父、喜之烝さんが「よし、春夫よ、今、親戚に兵隊とかで帰っている人が大勢いるので、その人達に声をかけてやるわ。」と言って皆に相談をし、「とにかく、春夫がこの仕事をすることになったので、春夫を男にしてやってくれ。」と言ってたのみました。三十才位迄の人達で、仕事は普通の人の倍もするので、工事は順調に進みました。当時は車もないので馬車、牛車で石を運び、石屋も多く集まりました。

そして、工期までに品質の良い工事が完成し、県の人や他の業者もビックリし、「北岡と言うのはあなどれんぞ。」と言ったそうです。当時、私の父も半田で県の治山工事の監督もしていたので、その人達も連れて行ったことがありました。当時は会長も地下足袋とゲートルを巻いて現場で仕事をしていました。

私が前に述べた事で誤りがありました。二十二年当時、篠原数市さんと坂本信数さんと書きましたが、篠原数市さんと藤原のよっちゃんでした。それともう一つ、会長の結婚の日が昭和二十四年三月二十三日か二十四日が三月十九日のあやまりでした。訂正致します。

昭和二十五年に昼間中学校(今の三好中学)の校舎を新築し工事が済んで引き上げる時に運動場の県道側のフェンスが低かったので、それを三・四m位の高いフェンスに取り替えて、学校関係の人や町の人に大変喜ばれました。思い出しましたので付け加えておきます。

(馬場 茂さん 元㈱北岡組 建築部)

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